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REDS COLUMN
2024年12月03日

-興梠慎三の軌跡- COLUMN03 興梠慎三が追いかけた母の背中

興梠慎三の母・定子(さだこ)さんは息子について「産んだだけ」「勝手に育った」と言う。 だが、サッカーとの出会いをつくったのも母なら、背中を押してくれたのも母だった。 その母の目に息子・慎三の歩みはどのように映っていたのか。 2024年7月31日、埼玉スタジアム——。 プロサッカー選手として歩んだ20年のうち、半分以上となる11年を過ごしたホームで、引退発表会見に臨んだ興梠慎三は言った。 「今日は自分の誕生日です。自分にとってもこの日は特別な日ですけど、自分は母に一番感謝しないといけない。そして母に感謝するべき日だと思っています。僕がここまで現役を続けられたのも、母が丈夫な身体で産んでくれたことが一番だと思っています」 そう息子が母への感謝を伝えれば、会見の模様を画面越しに見ていた母・定子さんは、凛々しい息子の姿と言葉に感謝した。 「私が言ったら周りに笑われるかもしれませんが、慎三については本当に面倒を見ていないんです。仕事でいろいろなところに行くたびに、みんなに『どうやって育てたんですか』と聞かれるのですが、『勝手に育ちました』と答えています。私はもう産んだだけ。それくらい手のかからない子でした。 会見でも、お弁当を作ってくれたり、送り迎えをしてくれたりとかではなく、『丈夫に産んでくれて』と言っていましたよね。本当にそのとおりで。丈夫に産んだことを、こんなに喜んでくれる子がいるのかなって……」 定子さんは「だから」と言葉を続ける。 「慎三は勝手に育ったんです。むしろ、周りや世の中に育ててもらったと思っています」 興梠は1986年7月31日、第三子として宮崎県宮崎市に生まれた。 物心がつき、覚えているのは、いつも仕事で忙しく飛び回っている母の姿だった。 興梠本人も「母の言っているとおりなんですよ」と笑う。 「自分がサッカーをはじめた小学生のときから、他の選手の親は(自分の子どもの面倒を見るのに)熱心で、試合があったら毎回のように応援に駆けつけていました。父兄がやる仕事もあったので、それをみんなの親がやっていた。でも、自分の親は仕事が忙しくて、全く来なかった。小さいながらに周りからどう思われているのかなって、少し気になっていた時期もありました。 だけど、結局は自分がサッカーを楽しむことが大切で、自分がどれだけチームのためにいいプレーができるかが重要だと思って。そこに親が来る、来ないは関係ないと思っていました」 ただ、定子さんも「何もしていない」と笑うが、しっかりと息子を導いていた。なぜなら、息子をサッカーと出会わせたのは、他でもない母だったからだ。 「とにかく足が速かったので、足の速さを生かせる競技がいいのではないかと思って、最初に(地元宮崎市の)大宮サッカースポーツ少年団に連れて行ったんです。そこで、やっぱり足が速いし、ボールの扱いもうまいと言われたんです。ただ当時は、野球とサッカーの両方を習っていて、どっちも本格的にやっているわけではなかった。私は本人の意志が大切だと思っていたので、慎三にはすべて、自分で決めさせてきた。だから、このときもサッカーと野球のどっちを選ぶかと聞いたら、慎三は『サッカー』と言ったんです」 サッカーとのタッチポイントを創出しただけでなく、自分で決断させていると...


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