2024年12月02日
-興梠慎三の軌跡- COLUMN01 30年来の友人が語る、今も変わらないシンゾウ
興梠慎三が歩んできた道のりには、どんな出会いがあったのか。そして、どのようにして日本を代表するエースになったのか。その答えを探しに、「-興梠慎三の軌跡-」と題した企画として、クラブスタッフが彼の原点、故郷宮崎へと向かいました。
興梠慎三と初めてFWでコンビを組んだのは、おそらく山下圭介さんだろう。
サッカーをはじめた大宮サッカースポーツ少年団(宮崎県)で、興梠はサッカーの楽しさを知る。
そこで出会った30年来の友人が語る興梠慎三とは——。
プロになっても、浦和レッズの選手になっても、学生時代と変わらない姿に、興梠の人としての魅力はある。
浦和レッズのオフィシャルサイトにある興梠慎三のプロフィールを見ると、チーム歴の最初に「宮崎東サッカースポーツ少年団」(宮崎東SSS)とある。
「1学年上には鹿島アントラーズでもチームメートだった伊野波雅彦さんがいて、1学年下には川崎フロンターレなどでプレーした久木野 聡がいた。メンバーもそろっていたのでチームはかなり強くて、全国大会に出場するなど、本当にいい経験をさせてもらいました。練習はかなり厳しかったですけど、そこでサッカーについて、さまざまなことを教わりました」
しかし、興梠にはチーム歴に載っていない原点がある。
大宮サッカースポーツ少年団(大宮SSS)——。
宮崎東SSSでサッカーの奥深さや厳しさを知ったなら、大宮SSSではサッカーの魅力、楽しさを知り、そして向上心を抱いた。
サッカーとの出会いについては、母・興梠定子さんの言葉を借りよう。
幼かった息子が風を切って、土のグラウンドを駆ける姿を思い出しながら言った。
「短距離も、長距離も、とにかく走るのが速かったんです。あとは小さいときからどんな球技をやらせても、ボールを扱うのが得意でした」
3歳年上の兄の影響から、小学生になると野球を初めたが、定子さんは疑問を抱いていた。
「もっと、慎三に合うスポーツがあるのではないか」
知人から近くにサッカークラブがあることを聞いたのは、そんなときだった。
息子を連れて見学に行くと、グラウンドで子どもたちが走り回っていた。
「そのとき、これだって思ったんですよね。サッカーなら息子の足の速さが活かせるんじゃないかって」
サッカーは息子の能力や特長に合っている。瞬間的にそう感じたが、定子さんが大切にしたのは息子の意志だった。
隣にいる息子に聞いた。
「サッカーやってみる?」
「うん。やってみたい」
興梠がサッカーとの邂逅を紐解く。
「大宮SSSは、練習も週2回あるくらいで...
続きはサイトメンバーズ(月額330円/税込)にご登録いただくことで、お楽しみいただくことができます。
続きはサイトメンバーズ(月額330円/税込)にご登録いただくことで、お楽しみいただくことができます。